安倍元首相が銃撃されたというニュースを知ったのは、連日40℃を超える猛暑のマドリードからアリカンテへと脱出する日の朝だった。
iPhoneのロック画面に表示された、弟がWhatsAppで送信してきたニュースリンクの見出しが目に入った瞬間に、珍しい早起きでまとわりつくはずだった眠気が全て吹っ飛んだ。
家を出るまではまだ時間があったから、YouTubeで配信されている日本のニュース番組に目をやりつつ、ニュースサイトを巡回したり、ツイッターを巡回したりして、情報収集に勤しんだ。
その時点ですでに日本時間では午後2時頃で、安倍元首相は心肺停止状態だということだった。
視界がぐにゃりと歪むような気分がした。
遠いスペインに住んでいる私でさえそうなのだから、日本に住んでいる人達にとってはもっと衝撃が大きかったことだろう。
メンデス・アルバロ駅のバスターミナルで、目的地アリカンテに行くバスとは別の、そちらもまたアリカンテへと向かうバスに乗った。
チケットの確認をする係員がおらず、最後部の列の3席挟んで隣だった若いカップルの女性に「バスの番号が違うけど、まあこれもアリカンテに行くし、運転手にバレなきゃ大丈夫でしょ」と言われたので、その言葉に甘えた。
バスの最後部窓際の席に落ち着くと、私はまた情報収集を再開した。
その頃、日本時間では17時過ぎで、家族のWhatsAppグループチャットも、ツイッターのタイムラインも異様なざわめきのようなものがあった。
安倍元首相の逝去が速報された。
ニュース速報の画面のキャプチャの「安倍晋三元首相 亡くなる 67歳」という画像を見て、またふらふらと目眩がするような気がした。
私は安倍元首相の支持者でも、自民党の支持者でもないが、ここ20年ほどの日本政治の中で最も重要な人物であるのは間違いない。
呆然と窓の外に目をやると、暑さで干上がった草原と木々が通り過ぎていくのが見えた。
そういえばここはヨーロッパだった。私の頭は目まぐるしい速さで日本-スペイン間の10000キロを往復する。
ツイッターでは「歴史の教科書」というワードがトレンドに入っていた。
「この事件は歴史の教科書に載る」「歴史の教科書でしか見たことのない事件だ」といったツイートが多く見られた。
私は中学生ぐらいの時に父が言っていたことを思い出した。
「日本が負けて戦争が終わって、60年が経った。でも、この状態が最終形態じゃない。今度はロシアが戦争を仕掛けるかもしれないし、全然別の国が全部をひっくり返すかもしれない。これで終わりじゃない。この状態が永遠に続くわけじゃない」
父は大学で東洋史の勉強をしていて、歴史科の教員免許を持っていた。
なんの話をしている時に上記の言葉が出たのかは覚えていないが、小さい頃から「第二次世界大戦はたくさんの犠牲を出しましたが、日本の敗戦後、人類は平和を取り戻しました」と刷り込まれていた私の様子を見て、なにか思うところがあったのかもしれない。
2020年の終わりに、水瓶座で木星と土星のグレードコンジャンクションがあり、風の時代だ、風の時代だ、と騒がれた。
なんだか明るいムード、なにかに期待するようなムード、浮足立った雰囲気に少し違和感があったことを覚えている。
風の時代が始まるということは、土の時代は終わる。
土の時代は物質的な時代だと言われるが、この世に肉体を持った私たち人間というのも”土”的な存在だ。物質的な存在である私たちと、物質的な時代の親和性は高い。
第二次世界大戦が終わってからの数十年間というのは、「人類は戦争から教訓を得て賢くなり、平和を保つことができるようになったのでした」ということではなく、「土の時代の最後の栄華」に過ぎなかったのだ。
土の時代の最後の栄華に私たちは、立派な肩書きの指導者が率いる国という枠組みの中で、食い扶持を稼ぐため、住む場所を確保するため、あるいは美味しいものを食べたり、素敵な宝石や車を買うために働いた。
立派な肩書きの指導者は、立派な経歴と肩書きを持っているから立派なはずで、立派なはずだから国という枠組みは揺るがないし、私たちの生活も安心安全なはず。
戦争という苦境をくぐり抜けて、やっと手に入れた平和。
世はまさに春。
そんなわけはないのだ。
その状態が永遠に続くわけはない。
「2022年に暗殺事件が起きるなんて」「平和な日本で」という嘆きのツイート群を見ながら、つまり長い春が終わったということなのだ、と思った。
前々回のグレートコンジャンクションは2000年に牡牛座で起こった。牡牛座といえば春真っ盛り、4月の下旬から5月下旬にかけての季節の星座である。
前回、2020年のグレートコンジャンクションは水瓶座、冬の真っ只中、1月下旬から2月中旬までの季節の星座のもと起こった。
春が終わったら普通は夏が来るが、この比喩の上では次に来るのは夏とは限らない。死を覚悟する厳しい冬が来てもおかしくはない。
長い春が終わりつつある。
私たちは今後どんどんと”春でない状態”へ引き戻されていくだろう。
春しか知らず、他の状態へ適応する術を知らないとしても、私たちは引き戻されていく。
アリカンテのバスターミナルに到着すると、友達がベビーカーを押しながら出迎えてくれた。
ベビーカーの中には、3月の終わりに生まれたばかりの赤ちゃんが眠っていた。
友達の家へ向かう道中、デパートの地下でパンを選ぶ友達の代わりにベビーカーを押してやりながら、これから物心がついて成長していくこの子のことを考えた。
春が終わりつつあるいま生まれたこの子は、春を知らずに育つのだ。
この子が大きくなった時、春しか知らずに慌てているであろう私たちを、この子はどんな思いで見つめるだろうか?
慌てながらも、春に得たものの中で、この子に遺して伝えてあげられる何かを、私たちはこれから選り分けていかなければならない。
世の中はもう春には戻らない。
厳しい冬を生き抜くために本当に必要なものだけを持って、この場を後にしなければいけない時が来ているのだ。
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